富山県障がい者スポーツ指導者協議会

令和3年度 第2回富山県障がい者スポーツ指導員連絡会議・研修会

令和3年度 第2回富山県障がい者スポーツ指導員連絡会議・研修会に行って来ました。

会議室入口で受付、体調チェックシートの提出、検温を行いました。
感染対策の為、蜜を避ける為座席が決められていました。

当日は、各障害者スポーツ教室の代表者、障がい者スポーツ指導員17名が参加しました。

令和4年2月12日(土)10:30~12:00
富山県総合体育センター 会議室

講演 演題「リオパラから東京パラへの取り組み」
講師 東京パラリンピック陸上ガイドランナー、コーラー
               大森 盛一(おおもり しげかず)

          東京パラリンピック陸上競技 T11(視覚)日本代表
               高田 千明(たかた ちあき)選手

本来なら、来県して頂き直にお二人のお話を伺う予定でしたが、
コロナ渦の為、リモートでの講演となりました。ご本人達も来県できず残念でしたと言われていました。

【講師紹介】
大森さんは高岡市出身(志貴野中学出身)の陸上のオリンピアです
1992年バロセロナオリンピックに出場
1996年アトランタオリンピック 400mリレーと1600mリレーに出場され
1600mリレー決勝ではアンカーを走り64年ぶりの5位入賞を果たされました。
引退後の2008年、陸上クラブ「アスリートフォレスト トラッククラブ(A・F・T・C)を設立され
指導者になられ、高田千明選手のコーチを務められています。高田選手と
2016年リオパラリンピック ガイドランナー・コーラーで出場
2020年東京パラリンピック ガイドランナー・コーラ-で出場

高田選手は、生まれた時から視覚に障害があり、22歳から本格的に陸上を始め
T11クラス(全盲)で 2016年リオパラリ100mと走り幅跳びに出場し、それぞれ日本記録を出されました。
また2017年 ロンドン世界選手権では銀メダルを獲得されました。他の大会にも日本代表として出場されました。
昨年開催された東京パラリンピックでは自己ベストを更新され、5位入賞を果たされました。

講演では
高田選手が学生時代スポーツと出会い、社会人となりスポーツをやる環境から遠ざかってしまい、スポーツをしたいという思いから、自分から行動し、色々な人との出会いを経て大森さんと運命的な出会いをされ、「オリンピックに出たい」と言う夢を二人三脚で実現されました。
視覚障害者の練習方法、東京オリンピック出場までを明るく、楽しくお話して頂きました。

大森さんは現役を引退された後、陸上から離れ、やりたい事をやろうと東京ディズニーランドに就職し、ジャングルクルーズに配属されたそうです。
東京ディズニーランドは夢を与える場なので、社内教育では話してはいけない言葉があるそうです。
その一つが「危ない」と言う言葉です。東京ディズニーランドは「危ない、危険な場所ではない」ので、「危ない」をどういう言葉に置き換えて伝えるかを学んだ事が、今に生きているそうです。
相手に伝わる様に、色々な言葉が使える様になると、いろんな人とコミニュケーションを取る時やこの様な講演活動にとても役立っているそうです。

高田さんは学生時代、ゴールボール、ブラインドサッカー、水泳、陸上と先生のサポートの下、沢山のスポーツを経験されました。
ご本人曰く、根っからの負けず嫌いで、どのスポーツも一生懸命頑張られたそうです。
しかし、社会人となると周りにサポートしてくれる人がなく、会社と家の往復だけとなり、スポーツをしたくてもで一人では出来ず、何か一人でやれるスポーツはないか?と
盲学校の先生に相談したら、先生からのアドバイスで「陸上の大会に出てみたら?」と勧められ、大会に出場し、その大会で出会った選手と話をした事をきっかけに、話がトントンと進みクラブチームに入る事ができたそうです。
自ら、一歩を踏み出した事から、始まった壮大なサクセスストーリーを伺いました。

そのクラブチームで大森さんと出会い、大森さんが高田選手のガイドランナーとなり一緒に練習され、記録が延び各国際試合に出場し、自ら日本記録を塗り替えられ、
記録を出せば、結果が出れば、パラリンピックに出場できるかと思いきや
パラリンピックには各競技毎に「出場枠(人数制限)」があり、その枠を男女で分け、
また「視覚」、「切断」、「機能障害」に分けられるとパラ公認記録を出していても、
走りを後2秒早くできないとパラリンピックに出場できない状態で、年齢的にも体力、気力が落ち始めている中、なかなか難しかったけど、やはり「パラリンピックに出たい」気持ちがあり、100m以外の他の競技はないか?
と思っていた時、たまたま走り幅跳びの選手に出会い、その人に記録はどれ位なのか?どんな練習をしたらいいか?
などを聞きいて、「自分にも出来るんじゃない?」「やってみないと分からない」から「やってみたい」と思い大森さんに「世界と戦いたい」と拝み倒したそうです。(笑)

それを聞いた大森さんは正気の沙汰ではないと思われたそうです。
視覚に障害があり、走る、飛ぶ、着地をする走り幅跳びに転向するのがどれほど大変な事か・・・
大森さんは高田選手に「幅跳びの練習で怖いと言ったら辞める」と言われたそうです。
高田選手も納得され、走り幅跳びの練習を始められたそうです。

まずは助走の練習から・・・
高田選手の最適な歩数15歩(距離で言うと22~23m)を真っすぐ走る練習に随分費やされたそうです。
最初は大森さんがリズムを取って「ハイ、ハイ、ハイ」と声かけしながらでしたが、
それだと15歩の歩数を間違え、13歩で踏み切ろうとしたりしたので、「1、2、3・・・10、1、2、3、4、5」と数字で伝えたら上手くいったそうです。
リオパラリンピックで日本記録を出し、8位入賞されましたが、それ以上を目指なら走り幅跳びの専門家のアドバイスが必要と思われ、大森さんは幅跳びの選手だった井村久美子さんに連絡をされ、井村さんが幅跳びの基本から高田選手に教えられたそうです。

視覚障害のある高田選手に正しい動きを伝える為、踏切⇒空中姿勢⇒着地を井村さんがそれぞれの姿勢のポージングを1コマずつ行い、高田選手が井村さんの体を触り、手や足の角度などを手で感じた事と言葉での説明を聞く⇒高田選手がイメージ。⇒イメージした動きをやってみる。⇒また触って・・・の繰り返しを100本/日続けたそうです。
視覚障害者が見た事、やった事がない事を、イメージし実際にやるのは本当に大変な事だと思いました。
飛ぶ、着地も未知の世界で恐怖との戦いだったと思います。
理想のイメージにたどり着くまでには、多くの時間と、練習、言葉があったと思います。
それと同時に高田選手に寄り添い、教える井村さん、大森さんの情熱と数多くの努力も伺えました。

その後、東京2020パラリンピックの選手に選考されましたが、開催半年前の2020年3月コロナの為延期決定。
半年後に照準を合わせ、上げてきた気持ちをどうしたらいいの?と苦悩されたそうです。
その後、緊急事態宣言があり、練習する場がなくなり、ナショナルトレーニングセンターも閉鎖された為、
広い歩道のある公園で、昼間は人の目があるので、夜練習されてそうです。
通常の練習も出来ず、気持ちの切換えは大変だったそうです。

そして昨年夏、東京2020パラリンピックの前日までは絶好調で、周りからも「大丈夫じゃない?」と言われていたが、試合当日、イメージ通りに気持ちと体のバランスが取れず、崩れてしまい、6本の試技の中、何がいけないのか?と焦り考えすぎてしまいいい記録がでなかったそうです。
結果は5位入賞でリオより順位をあげましたが、高田選手は納得がいく結果でななかったそうです。

今後のパラの発展の為にはどうすればよいか?を大森さんが教えてくださいました。
パラ選手を育成する前にパラ競技パートナーの育成が不可欠です。
パラ競技パートナーは誰にでもなれるものではなく、まず選手より早く走れる人でなければなりません。
またその競技を深く知り、教える事ができないとなりません。
その上、障害者のパートナーになるには、障害を理解し、受け入れる事も必要です。
「障害者=大変」の概念を捨て、「危ない/できない/無理でしょ」を取っ払い、
「工夫次第で出来る事がある」など、その工夫を選手と共に考えれる人の育成が大切!
私達も、障害者スポーツに携わる中で、その考えは大切だと思いました。

高田選手はこれまで沢山苦労されたと思いますが、そのお話の中に苦労話はなく、
逆に笑い飛ばされ、屈託のない言葉と笑顔で伝えて頂き、初めから最後までポジティブ全開でした。

高田選手は東京パラリンピックの結果には満足されておらず、負けず嫌いがまだまだ継続していて、次のパリを目指しているそうです。
大森さんも次のパリまで高田選手のパートナーとして頑張られるそうです。

ご講演頂きありがとうございました。沢山パワーを頂きました。
パリまでの道のりは険しいと思いますが、お二人の今後の活躍を富山から応援したいと思います。